源頼朝墓とされる石造りの層塔があります。かつて、源頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所とも推定されています。安永8年(1779年)に島津重豪により頼朝墓の整備が行われ、現在も墓所内に残る碑文から当時、玉垣、灯篭、水盤等が寄贈されたことがわかっています。なお、現在の層塔は平成元年(1989年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されたものを翌年修理・再建したものです。
鎌倉市ホームページより抜粋

島津家の家祖とされる忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。
Wikipediaより抜粋

このことから島津家が頼朝の墓を整備したのは、島津家の先祖は源頼朝と信じていたからだと推測される。
また、源頼朝の側室だったかもしれない「丹後局」は、比企掃部允と比企尼(源頼朝の乳母)の長女であり、島津家の家祖とされる忠久の母であることを最近知った。(Wikipediaより)
今回、改めて鎌倉へ行ってみたくなったのは、埼玉の比企郡で生まれ育ったこともあり、源氏と比企氏の関係に興味を持ったからだった。

源頼朝の墓の近くには「白旗神社」がある。これについても検索してみた。
白旗神社(しらはたじんじゃ)は、関東地方・東北地方・中部地方に分布する神社である。白幡神社・白籏神社とも表記される。多くは源頼朝を主祭神とするが、他に源義家・源義経などの源氏の武将、源氏の氏神である八幡神を主祭神とするものも多い。社名は源氏の旗である白旗に因むものである。
神奈川県鎌倉市西御門に鎮座する白旗神社は、元は源頼朝の亡骸が葬られた法華堂があった場所で、70メートルほど東側にある北条義時墓の法華堂遺構と共に、法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)として国の史跡に指定されている。
Wikipediaより抜粋
若林泰弘