大平山への、もう一つの登山道は遠山道の坂を登りきったところを左折し登る北道で、距離的には一番時間を要する道だが途中、東方に嵐山町街を一望できる場所や西方面に遠山集落や笠山を眺めることができる。ひと汗かくとアラカシの大木に挟まれた雷電神社が祀られている頂上へ着く。雷電神社の横に遠方の山案内を示す石造モ二メントもあるが、山頂近くの樹木が大きくなり見晴らしが効かないのは残念だ。しかし、雷電神社から南へ100mほど歩くと東屋があり、そこから東南に東京方面が一望でき、空気の澄んだ日には新宿副都心や東京スカイツリーも望むことができる。
・・・終わりに・・・
ここまで槻川流域の変遷や嵐山渓谷美等の一部に触れ、私の知り得る半世紀程の流れについて記憶を捲ってみた。槻川流域やその支流についても、また嵐山渓谷についても、隅から隅まで足を運び目で確認した訳ではない。もっともっと深く調べて記すべきと痛感したが、最初の一歩ではこんなものかと納得するしかない。
槻川流域の4町村には古い歴史が有り、神社仏閣や沢山の名所旧跡も有ると思われる。また、この流域からは多くの石器や遺跡が見つかっている。古い時代の事はともかく、少なくとも明治期以降に於ける人々の生活状況、自治、産業、娯楽、教育、文化・・・等々、それらを何時の日か改めて記してみたいと思っている。
尚、記述中に出てくる東秩父村、小川町、ときがわ町および嵐山町は、現存する槻川流域の町村名であり、半世紀前の呼称はそれぞれ異なり、昭和の町村合併により槻川村と大河原村が合併して東秩父村に、大河村と竹沢村、小川町、八和田村が合併して小川町に、都幾川村と玉川村が合併してときがわ町に、菅谷村と七郷村は嵐山町(両村合併時は菅谷村)となり現在に至っているわけで、これ以前にも更に小村であった近隣の村同士が合併してきた経緯がある。

~ 完 ~