人は誰にも懐かしいところ、想い出の地、あるいは心休まる場所があるものだ。私のその場所は、故郷でもあり生活圏でもある槻川とその流域の嵐山渓谷である。私は、槻川の支流域で生を受け成長し、独身時代の一時ではあるが東京の山の手に住み虎ノ門で働いた。そして年月が経ち現在、槻川の下流域である嵐山町で生活している。
ヤマメは、稚魚の時に淡水の清流で過ごし、成長すると下って大海へ移り大魚のサバになるという。ヤマメの河川と大海との関係とは異なるが、私にとって槻川流域は、半世紀余りに亘って切っても切れない関係にあり郷愁の地である。広い世の中を知らない田舎者が、そんな地理的にも歴史的にも理解できていると思っているところの、槻川流域と嵐山渓谷との60年の付き合いから、時代の変遷を自分の肌で触れ目で感じたところを記してみる。
・・・槻川清流域の今昔・・・
槻川は埼玉県西部を流れる一級河川で荒川水系の一つである。外秩父山系の堂平山に源を発した槻川は、東秩父村の陣川橋あたりで川幅はおよそ50m、小川町の盆地に入り馬橋あたりで100m、水深30cmくらいで清流は小川町下里、嵐山町遠山、ときがわ町小倉を流れ、嵐山渓谷を抜けて都幾川に合流する二瀬橋あたりでは、おおよそ150mの川幅になる総延長およそ25km、流域面積約86㎢の河川である。
この槻川の支流には栗和田川、大内沢川、萩平川、帯沢川、入山川、舘川、兜川があり、古くから支流域住民の生活用水、農業用水として利用され、17ケ所の取水堰が設けられていた。この取水堰の主目的は、稲作の田んぼに水路を使って水を確保するためのもので、苗場作りの春先から稲穂が実る旧盆頃までの間、取水堰と水路がその役目を担っていた。田んぼで水を使わない期間の取水堰は、水深2~3mの処も有り夏場の子供たちの水遊び場でもあった。しかし、昨今の食糧事情の変化から耕作地が激減し、取水堰も用水路もその役目を終えた所があり、堰や堀が朽ちてしまい往年の姿が見られなくなっている。
また、昭和20年代後半から流域の各町村では、この清流を上水道用に利用するため、支流域に取水口と浄水場を設けている。なかでも小川町では町民の生活用水として舘川上流域に規模の大きなダム湖も建設している。このことは戸数の少ない集落でも生活向上と衛生面の確保から、各家庭に上水道は行きわたっている現状にある。
食糧難の時代には山間の地でも水を引いて棚田を耕作し稲作が行われていたが、現在の槻川流域における清流を利用した稲作農地は僅かとなり、東秩父村では川下地区と安戸地区、小川町では下里地区さらに嵐山町では遠山地区くらいで、他は農家でも畑作も家庭菜園程度の規模の小さなものとなっている。
稲作が減ってきたのは、経済構造の変化と共に労働力を生産性の高い仕事への変換と、更に生活レベルの向上に伴ない飽食の時代に変わった背景にもよるが、もともと槻川の水量を観ると「稲作時期」における全流域の耕地を充分に潤すには足りなかったことによるのが大きいと観られる。私も就職して生家を離れるまで、農作業の手伝いをしていた昭和30年代頃は、どの農家も自給自足で田植えや刈り入れは全て人海戦術で行い、最近のように機械化は皆無であった。
槻川の支流は、いずれも山間部を通り抜けているため急流域が多く、ガケ崩れ防止の大小の砂防堤が昭和30~40年代に数多く建設されてきた。そのために昭和30年初までは見られた清流を好むイワナやヤマメなど現在は生息が見られなくなった。更に、稲作の消毒液等でタニシも絶滅し、夏の風物詩であるホタルも今は見られなくなってしまった。その影響か定かでないが田畑の上空を無数に飛んでいた益鳥のツバメや赤トンボを見かけるのも稀となってしまった。
~ つづく ~