このように小川町は、大正期から昭和40年代初頭にかけ槻川流域の「和紙産業」、「酒造産業」それに「生糸産業」の中心地として栄え商店、割烹旅館など街様も賑わっていた。その象徴的なものとして「和紙」、「酒造」それに「生糸」で財を成した、これらの組合は槻川流域の大地主など有力者と共同で「小川信用金庫」を設立、小川町に本店を置き埼玉県西部を中心に25支店を構える金融機関として地域経済の発展に寄与してきた。

 また、これらで財を為した商店主等が中心となり、小川町では毎年8月7日~8日に大通りで「七夕祭り」を飾り、夜店や花火の打ち上げなどが盛大に行われていた。しかし、経済構造の変化と共に生糸産業、和紙産業は衰退し、現在は七夕祭りも街の賑わいも無くなり様変わりしてしまった。時を同じくして、この「小川信用金庫」も投資に失敗してバブル崩壊で立ちいかなくなり「埼玉縣信用金庫」に吸収合併されている。

 賑わいを呈していた小川町の大通り街の大店も、平成の時代になってから閑散としシャッター通りと化した。半世紀あまりの間で変らないのは槻川の清流だけとなってしまった。 

~ つづく ~

投稿者 akari